正しく努力するということ

今日は「努力」ということについて少し書きたいと思います。

 

私が今までの人生の中で努力したこと言えば、麻雀と受験勉強くらいだと思います。

麻雀を知っているだけの人に比べれば少し成績は良いですし、一浪したとはいえ東京大学に合格させていただいたように、結果も伴っていると言えます。

 

ただ、麻雀も、受験勉強も、上達のためにガリ勉のように朝から晩まで他の全てかなぐり捨ててまで時間を投じたかというと、そうではないように思います。

(麻雀に関しては勉強と言うよりも単純にやり過ぎて留年してしまいましたが・・・)

 

特に受験勉強に関しては、難関大学を目指す受験生の中では、お世辞にも時間をかけたとは言えない程度の勉強時間しか確保していませんでした。

しかし、それでも私は人よりも受験勉強のために「努力」したと思っていますし、その結果が現れていると考えています。

 

受験勉強に限らず、スキルの上達の早さの話になると必ず出てくるのが「才能」と呼ばれる概念です。

 

「あいつは才能があるから良いよな」

「俺には才能がないから努力したって無駄だ」

「僕にだって才能があれば」

 

この「才能」という概念、何故か自分にはない(と思っている)人の口から語られることがほとんどです。

確かに、自ら「才能」がある、と自慢するのは不遜ですし、謙虚な発言をしている限りは出てこないでしょう。

しかし、はたしてそれだけが原因でしょうか?私はそうは思いません。

 

持論としましては、「才能」を持っているとされている人間の多くは「正しく努力できる」と思っています。

ここで言う「正しく努力する」とは、決して「努力できることが才能」なんていう陳腐なものではなく、技術の向上というアウトプットを得るために何をする必要があって、そのために取るべきアプローチを正しく選択し実行できる、という意味です。

例えば、受験勉強で例えると、ある単元の問題を解くのに必要な前提知識は何かを把握し、その前提知識を身につけ(参考書を読む、公式を覚える、成り立ちを理解する、etc...)、どのような問題のパターン(具体的ではなく、より抽象的に類型化)があるかを網羅した上で、それぞれのパターンについてどのように解くべきかを考え、解放を一つ一つ身につけていく、ことでマスターしていきます。

 

これを理解せずに、ただ数をこなして時間だけを浪費し、努力した気になってしまっていることが、往々にしてあります。

勿論やらないよりはマシ、なのですが、場合によっては昼寝でもしていた方が人生のタメになることもあるでしょう。

 

少しでもゲームや漫画を読む時間を増やすために、ニコニコ動画でくだらない動画を見て笑うために、私は勉強時間を少しでも短く出来るように努めました。

結果、幸運にも「正しく努力する」ことを意識するようになったと思っています。

 

よく毎日何時間勉強/鍛錬しなさいと言われることがあると思いますが、費やした時間そのものには何の価値もなく、重要なのはどれだけ求めているアウトプットに近づけたかです。

逆に言えば、アウトプットがなければ、何時間費やそうがただの時間のムダ、です。

 

確かに、盲目的に言われたことをただただこなすことは、終われば何となく達成感も感じられますし、楽に実行出来てしまいます。

しかし、そうして「正しく努力する」ための努力を行わないことは思考放棄、怠慢だと思います。

 

「才能」があるされ、「正しく努力する」ことを続けるものは、誰よりも勤勉で、努力家だと、私はそう思います。